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from3.5次元to浄土
俺と音盤の対峙一部始終。(text=色即zk)

vol.5

metamorphosis ∞ /yusef lateef
晩年のマイルス・デイヴィスなどいてもいなくても構わぬようなものであったとつくづくと思い知らされまくる激渋の大真性ジャズ超伝導音の塊。「ジャズとは何か?」と問われれば即座にこのアルバムを差し出すという心横えが常に俺にはある。サックス×ベース×ドラムスによる無限磁力。ジャズの本質は『変身∞』なるタイトルに既に入念に語り尽くされてしまってもいるが、ここに収められた超能力的演奏の数々は無常や無限といったあらゆる現世的現象の本質すらが定義し尽くされてしまうという底知れなさやそれらを巡り日々行われる形而上的考察の深淵さを示すものでさえあり、もっと端的に言うならそれは真の「凄み」であるということをユセフ・ラティーフはその人相からも強く我々に語り掛けている。俺はこのアルバムを聴くたびに高僧の辻説法を連想するのだが、それは語り芸のいちジャンルとしてのジャズという意味に於いて勿論「最高の瞬間の連続」だということでもある。「ジャズが死んだ」などとぬかす奴らはとうに「終わっている」ということを証明する真性ジャズ復活の狼煙は1920年生まれというこの巨匠の自主制作盤群から今も続々と上げられ続けている。必聴。
at the golden circle vol.1,2/ornette coleman
馬場社長が今もこの空の彼方に在って、我々を見守り続けてくれているということには達いはないのだが、今も瞼にはAWA世界チャンピオン・べルトにまつわる真の名勝負の数々や空手チョップや32文砲やココナツ・クラッシュなどの大技をつぎつぎと放ちまくる勇姿が焼きついていて離れないという人は多い。しかし馬場正平がかつて巨人のエース・ピッチャーとしても大いに活躍をしていたという事実にも更なる注目や研究や考察はなされるべきだとも俺は考えている。信じられない豪速球や常人ではとても打ち返しようもない大変化球を当たり前の如く投げ続けたというのは俺の妄想では断じてない。馬場さんの動きがかなりスローモーに感じられるというのは元来ものまね好きな人々による誇張によるところも大きいのだが、馬場さんに内包された強靭そのもののしなやかさと速度をよく知るものにとってそれは脅威的イリュージョンであり、驚くべき視覚上の逆転現象であり、まさに超常現象のひとつでさえあった。馬場的スピード感の解明にこそ来世紀への鍵は確かにあると今こそ認識すべき時である。オーネット・コールマン・トリオによる‘65年ストックホルム公演の全貌を明らかにするこのライヴ盤にも同様の超常的逆転現象の数々を聴くことはできる。暴力的で朗らか。限り無く美しく間抜けそのもの。イノセントかつ狂暴。血がうなりほっと心も和む超能力的名盤也。
edinburgh 1997/faust
「ファウストは解散などしていない」ってじゃあそのあいだ十五年以上もあなた達一体何をやっていたのかというと「テントの中に大きな風呂場を作って、その中で演奏するというのをやっていた」とはご本人方の弁。「独特の音響効果が得られる」との事です。さすがというよりありません。90年頃共同でツアーをまわっていた灰野敬二氏は「連中(=ファウスト)があまりに変わっていないんでショックを受けた」そうです。一方スタジオ復帰第一作にあたる「rien」をプロデュースしたジム・オルーク氏は、何でもファウスト側から事前に送られたテープが全く使いものにならないうえにファウストの皆さんもス夕ジオには来るには来たが何もせずに文句だけ言いまくって帰っちゃったんで仕方なく「ファウストらしさをキープしつつでっち上げざるを得なかった」ということらしいですわ。さらにオルーク氏は「rien」が世界中で酷評されまくりで全く売れず「経済的にも追い詰められて実家に戻らざるを得なくなった」そうです。実に恐るべし因果パワー。迂闊に近寄れません。さて本盤はタイトル通りのエジンバラにおけるライヴ作なのですがエクスペリメンタル/実験的というには程遠く無謀そのものであり蛮行そのものでさえあるようなファウストの皆さんの日常が明かされていて興味が尽きません。持参の発煙装置で全観客を窒息寸前に追い込んだ例の来日公演もまたファウストの方達にとってはただの日常茶飯事に過ぎぬと思い知らされます。真に危険なゲルマン因果ロック。さすがというよりありませんよ本当に。
live/fabtastic explosion
世に溢れまくる偉ぶった奴らや「おいしい」思いをしているクソどもをおちょくりまわし、この世のあらゆる秩序や価値感を無意味の大宇宙へと押し流そうとすらする恐るべき技は永久革命を志す者に伝承され、受け継がれ続けてきた秘術としてあり、ガスと化した善意の裏返しであるという意味ではノイズ化して世間の人々の安眠を妨げようとするものでもあり、清純可憐な美女の顔面に僅か1mmの距離からぶっかけられた屁にも相当するものであると知れ。これもまた屈折した「愛の営み」の一形態であることを理解すべき時は来ている。ファン夕スティック・エクスプロージョンによる宇宙人愛にまみれた営みの変態ぶりは、DJ活動を偽装しダンス・フロアの姉ちゃんどもを襲う異臭事件そのものでさえある。実況録音作でもある本盤には事件/騒動の一部始終が捕えられ、逃げ惑う人々の様子が克明に記録されているというとてつもなく危険なCD化したガス。ドラムン・べース仕立てだがヤクザの怒声(本物)やらUFO特番ナレーションや浅間山荘事件やらブロン液のCMなど完全無意味なサンプリングの凄まじい濁流が聴く者の思考を完全に停止。俺は壮厳な交響曲とともに去ってゆく「斎藤清六」に頭の中を真っ白にされた。最高だが悪意に満ちているということは最低だから善意が溢れているということでもある。凄い。
渋龍/渋さ知らズ
いつもそうなのだ。生きていては有り難みが無いとでも言うのか? ローランド・カークは存命中「グロテスク・ジャズ」とさえ呼ばれていた。ピアソラは予言すらしていたと言う。「俺は死んだら売れるぞ。」今やその言葉の通りになってしまったではないか。時代が追いついたなどとは態のいい言い分けに過ぎぬと知れ。ふざけるな。クソ業界人/評論家こそ死に絶えろ。再評価などではなく、今ここで評価を必要としている者たちはクソの洪水に喘いでいるということを忘れるな。音楽とは時に生死を賭けた闘争という側面を持つものだが、自分というものがこの世に生まれ、生きてきたという全てを賭けて出された音どもは確かに存在している。これ以上犠牲者を出すことは絶対に許されてはならぬ。渋さ知らズとは自らの存在意義の全てを賭けて音を放つ者たちの連帯そのものであり、地底から全世界に向けて噴出するジャズ化されたマグマそのものである。欧州における歴史的快挙は本作の解説に詳しいが、ここ数年の渋さ知らズの恐ろしいほどの進化は、例えば本作の最後に収録された「DA DA DA」における無限とも思える清らかさにも顕著である。俺は鳥肌が立ちまくった。渋さ知らズにまさに「今」正当な評価を与えることができるか否か? それはもはや地球規模で考えるべき人類的課題のひとつでもある。参戦の方法は日々の過ごし方の中にこそ多々ある。連帯せよ。

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